あけましておめでとうございます。
年の初めということで何かめでたいことが最近身辺に生じていたかを考えてみたのですが、4人目の孫の洗礼が先月あったばかりでして、キリスト教徒にはめでたいことのようですので今月のコラムのテーマに取り上げることにしました。
「洗礼」を辞書で調べましたら、『キリスト教徒となるために教会が執行する儀式。全身を水に浸すか、または頭部に水を注ぐことによって罪を洗い清め、神の子として新しい生命を与えられる証とする』とあります。上の孫3人は洗礼を受けたという話は聞いていませんし、4人目の孫、つまり小生の次男とその伴侶の第一子の洗礼式へ招待状を受け取った時はかなり驚いたのですが、その背後には敬虔なカトリック教徒である、もう一方の祖父母の意向があったようです。
小生の子供3人は、いづれも1才前後でプロテスタントとして洗礼を受けたのですが、日曜の一般ミサにおいて出席していた信者の前で母親に抱かれた乳児の頭に牧師が水を注いで何やら祈りの言葉を述べて終了という簡潔なものでした。そして30余年ぶりに教会で洗礼式に立ち会ったのですが、とにかく驚きました。土曜日の正午から小一時間、大きな教会での儀式で出席者は近親者および親しい友人だけの約40人。バイオリンの独奏や朗読があり、牧師の訓話は色をテーマにしたカラフルなもので、衣装も派手でした。はてこの違いはカトリックとプロテスタントの違いによるものなのか、それとも世代の違いか、考え込んでしまいました。
その時の写真を以下に添付しました。洗礼を受けている孫を抱いているのが、孫からみると母親のいとこで、代親といえる存在になります。洗礼式には実親ではない成人が立会人として出席し、以後孫が堅信礼を受けるまでいろいろと親代わり(=代親)になるというしきたりになっています。この日の孫は生後8ヶ月で乳歯が生え始めたこともあり、むずかりっぱなしで、その上に予期だにしない水を頭に注がれたものですから泣き声はフォルテッシモとなって教会中に轟き渡り、牧師の言葉は全く聞き取れませんでした。

写真を見てふと気がついたのですが、牧師が水を注ぐのに帆立貝の殻を用いているのがお分かりになりますか?帆立貝はスペインにある有名なサンチアゴ・デ・コンポステーラへの巡礼路の道しるべにもなっていて、遠く離れたドイツのグミュントでもこの道しるべを見ることができます。また帆立貝はドイツ語でもフランス語でもヤコブの貝(独=Jakobsmuschel、仏=Coquille Saint-Jaqcques)といい、ヤコブはイエスの十二使徒の一人です。洗礼-巡礼路-ヤコブと並べますと、帆立貝はキリスト教と深い関連があるように思えます。
4月には親しい友人の息子の堅信礼に招待されています。新しい発見がありましたらこの欄でご紹介いたします。