先回のコラムではドイツにおける日本文学について勝手気ままな所感を記しました。立場を逆にして、日本人になじみのない光景や建物がセッティングとして重要な役割を果たしている外国文学は感覚的にどれほど理解できるかというのが今月のコラムのテーマです。日本におけるベストセラー2冊を例にとってみます。
昨年紹介しました「アルケミスト」では砂漠がセッティングとして重要な役割を果たします。砂漠というとまず日本人が想定するのは、見渡す限り砂ばかりの砂丘ではないかと思うのですが、実際の砂漠というのは必ずしもそうとは限りません。むしろ砂がちの荒地で石がごろごろ転がっているのが一般的な砂漠です。荒涼たる風景で砂嵐でも吹こうものなら目だけではなく鼻や口も覆わなくてはならず、砂丘のようなロマンチックな雰囲気はありません。別に日本人に限らず、どこの国の読者でも、この実際の砂漠の厳しさを体験している方は、この本をより深く味わうことができると思います。コエーリョはブラジル人ですが、世界各地を放浪したということですから、きっと砂漠をさまよったこともあるのでしょう。
そしてイタリア人エーコの「薔薇の名前」では有名なメルクの修道院が出てきますが、これも修道院に足を運んだことがあるか否かで感じ方がかなり違ってくると思います。どだい修道院というもの自体がキリスト教に関わらない日本人のとっては想像しにくいもので、「神の教えに従い、一定の規律に従った生活を実践する修道士が集団生活をおくるところ」といわれてもあまりピンときません。しかし修道院に足を入れて、なにか他所とは違う雰囲気を感知していれば、この本の面白さが倍増するはずです。この小説は映画化されていて、やはりメルクの修道院でロケが行われたようですが、映画では視覚で僧院の外観を把握できても、実際の雰囲気までは感じ取れません。
といったようなことをドイツ人の同僚と話し合ったのですが、彼が「うむ。同意できる。聖書もそうだ。聖書なんて赤道直下のアフリカに住む人間にはおよそ理解できないのだ。パンもワインもないところに住む人間に聖書なんてわからない。よってキリスト教の布教は無意味だ」と随分過激なことを言うものですから、「そんなこといったって結構普及してるじゃない…」と反論したのですが、気になりましたので、かつてはパンもワインもなかった日本はどうなのだと調べてみました。1999年の報告書によれば日本のキリスト教徒は0,7%ですが、同じアジアの国でありながら、韓国のキリスト教徒は25%とも40%ともいわれ、仏教徒の数を凌駕しており、クリスマスが祭日となっています。この違いはどこからくるのでしょうか?…おや、外国文学の話が宗教のほうに逸れてしまいました。これ以上テーマが脱線しないうちに擱筆…ちがいました、パソコンを閉じることにいたします。








