「謎のピアニスト」についてはすでに日本のマスコミでも取り上げられたと思います。
4月はじめにイギリスのケント州の海辺で、極度の恐怖感に苛まれている、ずぶ濡れの若い男性が警察当局に身柄を拘束されたというのがことの発端。調べではこの若い男性はおそらくトラウマ的体験によって神経虚脱症となり、記憶を喪失したようで、黒いスーツにネクタイという衣服がずぶ濡れであることから、正装のまま船から落ち、泳いで岸にたどりついたものであると推測されました。で、この20歳前後と思われる男性は当局から病院にまわされたのですが、この男の身元を確認するため、東ヨーロッパからの移住者であると判断した病院側はポーランド語、リトアニア語、ラトビア語の通訳を雇ってみたのですが通訳に対しても沈黙を続け、どうやら唖であることが判明したのです。
そして彼に鉛筆と紙を与え、彼の名前を書かせようとしたのですが、彼が紙に書いたのは名前ではなく、精密に描かれたグランドピアノ。そこで彼を病院のホールにおいてあるピアノのところまで連れていったのですが、信じられないことが起こりました。彼は数時間ぶっとおしでピアノを弾いたのです。しかもそれがプロ並みのすばらしい演奏。しかし病院で6週間の治療をうけたあとも「非常に強度な鬱と脅えがある」という彼の症状はよくならず、ピアノに向かっているときだけ病状が回復しているかのようにみえるようです。作曲もしているようで、ある音楽教授が彼のオリジナル作品であることを証明しているということです。
当局は、もし彼が英国人なら、誰かがどこかで失踪人届を出しているはずだと考え、新聞、インターネットを通じて一般市民に援助を求めました。すると自称他称のクラシック音楽マニアたちが相次いで「ヨーロッパ各地のコンサートホールで演奏していた」というコメントを出したのですが、音楽エージェンシーの調べでも、この謎のピアニストの身元は判明しない…すると今度はイタリアから連絡があり、同国で大道芸人をしているポーランド人が、「謎のピアニストは自分の相棒のである」と申し出たのですが調査の結果、間違いであることが確認され、他のデタラメなものとあわせて届いた情報は1000件以上で、今後さらに増える見通しとか。病状回復が思わしくないこの謎のピアニストは音楽療法や絵画療法を受けているとのことです。(註:ひょっとしてアントロポゾフィー治療なのですかね?)
…と言うのがニュースの一部始終なのですが、この記事を読んですぐにデヴィッド ヘルフゴットを思い出しました。映画「シャイン」でラフマニノフの第三ピアノ協奏曲にとり憑かれた精神異常の主人公のピアニストの実在モデルです。非常に衝撃的な映画でしたね…ごらんになりましたか?あの映画のあと奇を衒うことが好きなアメリカのとあるプロモーターがヘルフゴットのコンサートを企画し、リサイタルを催したのですが、舞台でヘルフゴットが精神に異常をきたし奇態を晒すと会場は大喜びという異様な事態となったことがありました。しかしヘルフゴットは唖ではありませんでした…唖でピアニストといえばずいぶん以前に『ピアノレッスン』というタイトルの映画がありました。強烈な恋愛映画でしたが、主人公は唖とはいえ精神不安定ではなかったはずで…女性でしたが…女流ピアニストといえばそのものズバリの「ピアニスト」という小説があります。ご存知昨年ノーベル文学賞を受賞したオーストリアの女流作家イェリネクの代表作です。彼女の半自叙伝とか、ノーベル賞作家のポルノとかで話題になりましたが、ここにも精神に問題のある女流ピアニストが登場します。映画化されて評判になりましたので、原作は読まなくても(かなり読みづらいです)、映画をごらんになった方も多いと思います。
日曜の午後のひととき、紅茶をのみながら、謎のピアニスト→ヘルフゴット→ピアノレッスン→イェリネクと連想したことを書き綴りました。このコラムが掲載される頃には謎のピアニストの正体が判明しているのでしょうか?