『エジプトへの逃避』という聖書の中のモチーフをアダム・エルスハイマー(Adam Elsheimer 1578-1610)はローマで描きましたが、この31cm×41cmという小さな名画の中に1200以上の星が記されているというのでドイツの識者の間で大きな反響を呼んでいます。このエルスハイマーというのはフランクフルト出身の寡作にして短命だった画家で現存している作品はわずか30点余りといいます。エルスハイマーという名前をご存知の方は非常に博識な方でしょう。
目下ミュンヘンのアルテ・ピナコテーク美術館で、【新しい星について:アダム・エルスハイマーの『エジプトへの逃避』】というタイトルの特別展が催されており、評判が高いものですから日帰りで鑑賞してきました。この絵に描かれている満月、天の川、星座にドイツ博物館の天文研究チームが焦点を当て、地平線に対する天の川の角度(35度)、天の川に対する満月の位置、および月面の3つのクレーターが非常にリアルであり、この光景は1609年6月16日か17日のものであると発表しました。星座などはこの日のものと一致していませんが、後日観察したものを描いたのであろうと推察されています。
※この絵は以下のアドレスからご覧になれます。(参考サイト)
http://de.wikipedia.org/wiki/Adam_Elsheimer
肉眼では見えない部分まで精密に天文画を描いたエルスハイマーはひょっとして望遠鏡を使用していたのではないかという疑問が出てきます。望遠鏡はオランダ人のハンス・リッペルスハイが1608年に発明し、これをガリレオ・ガリレイが改良して夜空を観察し1610年に『星界の報告』を発表して一躍有名になりました。一方、エルスハイマーですが、この絵を1609年にローマで描いていますので、もし彼が望遠鏡を用いたのなら、リッペルスハイの手になるものでしょう。特別展ではガリレオの使った望遠鏡の実物の複写や16世紀後半に用いられていた天体機器が展示されていて非常に興味深く観察することができました。とくにガリレオの望遠鏡は長さ1メートルほどの厚紙製の筒でレンズを固定する部分だけが木という質素なもので倍率がわずか14倍! 驚嘆しました。またガリレオの記した『星界の報告』の本も出品されていて半月のクレーターの描写が印象的でした。
自然科学的な興味は尽きませんが、この特別展では同じタイトルのレンブラント・ファン・レインの絵も陳列されていました。モチーフは同じでも様子というか雰囲気がまるで違います。レンブラントの方は忍び寄る危機感がひしひしと伝わってきますが、夜空は雲に蔽われ、満月もおぼろ月夜で天文学的要素はありません。描かれたのが1647年でエルスハイマーの絵から38年経ってからということで、レンブラントはエルスハイマーの作品に大きな影響を受けたことは否めません。また、マドリッドからルーベンスの『天の川の起源』(1636-38年作 / 181cm×244cm)が出展されていました。神話ではジュピターの妻ジュノーの乳房から出たミルクが天の川となったとされており、天の川の英語(ミルキーウェイ)、ドイツ語(ミルヒシュトラーセ)、フランス語(ヴォア ラクテ)といづれにもミルクという言葉が含まれています。ルーベンスの絵では非常にふくよかなジュノーが右手で軽く左の乳房を押していまして、乳房からは三筋の母乳が弧を描いて勢いよく飛び出ており、これが天の川となっています。エルスハイマーのきわめて自然科学的な天の川と、ルーベンスの神話に基づいた天の川との比較が実に面白いです。しかも両方の絵が同じ部屋に対応して掛けられているのでなおさらです。絵の大きさも格段に違います。
「自然科学的な考察」と「後世の画家に与えた影響」、この二つの全く違った観点からエルスハイマーの名画『エジプトへの逃避』にスポットを当てた特別展企画者の慧眼に心から敬意を表します。特別展は2006年2月26日(日)までです。ドイツにおいでになる予定のある方、ぜひミュンヘンに立ち寄ってこの特別展をごらんになってください。あるいは美術に大きな興味を持っている方、ドイツに来る予定がなくてもこの特別展だけを見にドイツに来る価値はあります。必見です。
■アルテ・ピナコテーク美術館
http://www.pinakothek.de/alte-pinakothek/
月曜休館。ただし最終日とその前日は避けてください。非常に混雑します。








